永禄六年(一五六三)秋九月,京都醍醐寺的僧侣朝北国旅行留下来的消费记录。
帐面标题为“北国下リノ遣足”。目的不明,但推测公的目的阿鲁。
这种会计帐簿支出Memo当时称做“小日记”,大德寺与东寺也有同样的旅行会计簿残留。
如同今日收据一样的东西。本来出张终了报帐完就没有长久保存的必要,但幸运留存下来
的战国年间稀有史料。
出发地为京都伏见醍醐寺>近江>中山道湖东北上越前>经三国凑走陆路往越后府中停留
>参诣信浓善光寺>回越后府中南下越过三国峠>11月到逹上野鸡足寺>半年间在下野、
常陆、北关东等地流转>翌年五月抵达岩城>向山形置赐长井>相马>再回到岩城后西向
>会津盆地>新潟(此史料为新潟地名初见,比之前1569年的谦信书状还早)>沿日本海
南下>越中>飞驒>井ノ口(岐阜市)>最后从坂本坐船渡过琵琶湖
1564年10月28日,一年以上的旅途终了。合计支出一四贯八一文。
‘遣足帐’只有金钱使用记录,并无提及旅行目的。但另醍醐寺无量寿院的院主尧雅于天
文一九年(一五五〇)至天正四~六年(一五七〇~七三)间四度前往各地方寺院游历付
法。藤井雅子氏将尧雅的资料与遣足帐行程图重合,刚好填补了关东空白部分。
尧雅与遣足帐的具体关系依然不明,但醍醐寺于东国的活动应是传教行为。空白无支出的
部分很有可能是因附近关系企业(真言宗寺院)多所以无支出的必要来考量。
顺便提到一文的价值,田中浩司氏试算大约现在150円左右。(成文时点为2004年)
小岛道裕氏则认为可用一文=1镁,或一文=100円,十文=1000円来计量。
宿泊料金从近江到越后一泊四八文,考量旅程二人同行,一人为二四文。之中早晚餐费用
明细为十二文,与前面提到的东寺记录完全相同。宿泊料金为晚餐加早餐计算,如用餐费
另计则会减额。
只有宿泊代和食事代,可以大致想像当时的旅馆是什么样的东西。吃饭是一人一份,没有
专用房间而是共用大通舖,寝具与风吕皆无提供。‘遣足帐’于最初记载ムシロ(草席)
购入花费十五文。另于飞騨の汤ノ岛的下吕温泉一泊八〇文的高价应该是泡汤(纯?)的
关系。
昼食(午餐)的习惯是近世才有,花费体力的旅行场合能量补充(昼休小遣)是必要的。
午餐费不定,二〇文前后、一人一〇文的状况很多,东寺的记录也是1〇文相较一致。
租马的駄赁因无正确的距离单价计算难,船费也同。
但单纯的渡河而言越前の三国凑(九头竜川)、加贺の凑川、越中の神通川・常愿寺川都
是一人四文,可能是广域认定的公定价。
过桥费加贺有五文的例子,越前北庄(九十九桥)则是四〇文,计一人二〇文。相对来说
近江瀬田川确实有经过却无记录可能实际上并没有付钱的关系。
另越后府中“ヤトノ(宿の)下女”二二文却没记载是什么对价关系。。。。。。
(和尚你这样做对吗?怎么可以不好好写下来做了什么,报公帐能这样吗?)
个人删节&烂翻
原出处
戦国时代の旅 小岛道裕
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/journey.html
“永禄六年北国下り遣足帐”について
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/kensokuchou.html
解说论文“中世后期の旅と消费”含,有与趣可以看一下内文。
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“永禄六年北国下り遣足帐”釈文
(第一纸表)
永禄六癸亥年九月廿日
北国下リノ遣足
百文 笠取西庄越中ニ
樽代廿日ヨリ廿
二日迄逗留ノ礼
廿文 ヒルヤスミ 草津
八十文 ハタコ銭 守山
廿二日夕・廿三日朝
十五文 ムシロ
廿九文 昼休以下
四十八文 廿三日・廿四日ハタコ
石寺にて
四十二文 昼休以下
四十八文 廿五日ノ夕・同廿六
日朝 木ノ本ニテ
ハタコセン
十六文 サケ以下
廿文 ヒルヤスミ
ツハイ坂
四十八文 廿六日ノ夕・廿七日朝
越前ノ今庄
*三十七文 昼休サケ以下
(*“三十”は原本は一字。以下同)
(第一纸里)
四十八文 ハタコ銭 廿七日夕
廿八日朝
越州 浅生津
四十文 北庄桥赁
十二文 キレトノ舟ちん
十七文 昼休
八文 凑船チン
廿二文 ヒルヤスミ サケ以下
五文 桥赁 加州
四十八文 ハタコ銭 十月一日
二日ノ朝
廿文 昼休以下
四十八文 ハタコ銭 二日・三日朝
加州凑
八文 凑川船チン
廿九文 昼休小遣以下
四十八文 ハタコ銭 三日・四日ノ朝
五十二文 杉原
廿七文 昼休以下
四十八文 ハタコ 越中国
安养寺にて
六日
六十一文 駄赁
廿四文 小遣共 サケ以下
四十八文 ハタコ銭 五日夕
六日朝
十六文舟ちん
(第二纸表)
六日
廿五文 昼休以下
四十八文 ハタコ 六日ノ夕
七日ノ朝
越中金山
七日
五十二文 昼休 サケ以下
四十八文 ハタコ 七日夕・八日朝
越中ヲイ庄
八日
三十文 駄赁 ヲイ庄ヨリ
市フリマテ
廿文 ヒルヤスミ以下
四十八文 ハタコ 八日夕・九日朝
越后国イト井郷
九日
廿五文 駄赁 イト井郷ヨリ
ノウ迄
十一文 小遣
四十八文 ハタコ 九日・十日
越后ノウ
十日
三十文 駄赁 名立マテ
十九文 小遣
三十三文 アルマ川迄
駄赁
四十八文 ハタコ アルマ川
十日夕・十一日朝
十一日
十三文 饼・サケ
十月十一日ヨリ越后ノ府中ニ
ツク
(第二纸里)
八十九文 十月十一日ヨリ同
十八日迄ノ小遣
四十二文 十九日ヨリ廿一日マテ
小遣之分
川豊方ヨリ长井方ト申仁
宝积寺・善光寺等ヘノ案
内者ニ酒以下ノ入目也
九十文 小遣トモ
廿二日ヨリ十一月四日
マテノ分也
壱贯百四十文ハタコ十月十一日ヨリ
十一月四日迄ノ分
府中ニ逗留ノ间分也
十一月
四日
七文 小遣松ハシニテ
四十八文 ハタコ 四日・五日
ハナカサキ
ニテ
六日
十三文 昼休以下
百七十七文 ノウ峯大善坊へ
礼ノ出銭分、七日・八日
両日逗留
五十文 ハタコ 田麦ニテ
九日ノ朝マテ
四十文 ハタコ 松平
九日・十日
廿五文 ノウ峯ヨリノ送ノ
人ニ遣ス
十日
十三文 コツカイ 犬伏
五十文 ハタコ 麻畠
十日・十一日
十一日
三十七文 小遣以下
(第三纸表)
四十文 ハタコ 十一日・十二日
汤ノサワニテ
十二日
廿一文 コツカイトモ
四十八文 ハタコ 十二日・十三日
アサカイニテ
十三日
四文 コツカイ
四十文 ハタコ 十三日・十四日
上野国アイニ
十四日
十二文 昼休以下
沼田
五十三文 ハタコ 十四日・十五日
ナグモ
十六文 コツカイ
四十文 ハタコ 十五日・十六日
タルイ
三十文 タルイヨリ ヲマ
田迄ノ駄赁
タルイヨリ ヲマタノ
鶏足寺ヘツク
十一月十七日
惣已上三贯八百廿八文
此分下リノ路銭分也
(第三纸里)
永禄六年十一月 日
遣足
百文 宇都宫ニ逗留ノ间
礼ニ遣ス、深长(?)方ヘ
五十文 结城ヨリ多劫
マテノ送ノ人ニ遣ス
十七文 コツカイ
六十文 駄赁 ヒホコヨリ
小松マテ
十六文 岩城 汤本ニテ
遣足
五十文 駄赁 川原コヨリ
五月十一日ニ田村ヨリ长井ヘ 越ス
三十文 タチン シノフヨリ
板ヤマテ
七文 コツカイ
三十文 駄赁 板屋ヨリ
シノフマテ
十五文 ハタコ 十二日
シノフニテ
十四日ヨリ田村ヨリ相马ヘコス
廿文 ハタコ
十五文 送ノ众ニサケ
相马迄人数五人
六月二日ヨリ相马ヨリ岩
城ヘコス
(第四纸表)
三十文 サケ シン山ヨリ
送众五人ニサケ
六月十二日岩城ヨリ田村ヘ越ス
十文 薬王寺ヨリ马
中间ニ遣ス
四十五文 ミサコヨリ小野
マテノ駄赁
五十文 小野ヨリミハル
迄ノタチン
同十七日ニミハルヨリ大平へ
越ス
百文 东仙坊ヘ礼
両夜逗留
三十文 太タイラヨリ
タカタテ迄ノ
駄赁
四十八文 高馆ヨリ中路
迄ノ駄赁
三十六文 ハタコ中路ニテ
八文 コツカイ
五十文 中路ヨリ黒河
迄ノ駄赁
六月廿二日 会津ヨリ立
ヤナイツニツク
(第四纸里)
廿三日
五十文 ハタコ
四十文 駄赁 柳津ヨリ
十文 駄赁 柳津
三十文 駄任(赁) 野尻マテ
廿四日
三十六文 ハタコ ノシリ
四文 コツカイ
五十文 津川迄駄赁
廿五日
四十五文 ハタコ ツカワ
三十二文 サケ
五十四文 フナチン
マヲロシマテ
廿六日
三十六文 ハタコ マヲロシ
ニテ
廿文 コツカイ
三十文 駄赁 マヲロシヨリ
村松迄
七十文 駄赁 村松ヨリ
横越迄
三十文 宿ヨリ
送众 サケ ヨココシニテ
十五文 フナチン コクラノ
ワタリ
廿五文 駄赁 対马屋マテ
廿七日
三十文 ハタコ 対马屋ニテ
廿五文 神原マテノ
案内者ニ遣ス
十五文 サケ神原にて
十文 ニイカタノワタリ
(第五纸表)
廿八日
百文 宿ヘノ礼
宇路(?)与助
同廿八日
十四文 船赁 神原ヘ
越时
八文 上原ニテサケ
十七文 船赁 ノツタリヘ
越时
廿八日ニ 乙宝寺ヘツク
十文 舟ちん 池ノハタ
三十四文 金蔵所ヘ酒手
廿五文 同
十文 舟ちん ヤス田
廿二文 昼休
弐百文 金蔵坊ヘ礼
山上迄ノ案内者
百文 山上ヨリ新方
迄ノ舟ちん
十七文 ムシロ
弐百文 大福坊ヘ樽
八十五文 舟ちん
八月十二日ヨリ廿二日マテ
三百六十文 ニイカタの
ハタコ同礼
廿二日
十五文 ヒルヤスミ
ヤヒコニテ
廿五文 駄赁
廿四文 ハタコ
(第五纸里)
八月廿三日
廿四文 ハタコ
十九文 小ツカイ
九月二日
廿一文 小遣トモ
三十五文 ハタコ カルイ川
九月五日 又 山上ヘ越ス
弐百文 中二日
逗留 大福坊ヘ礼
百五十文 ハタコ
行真同山城二人出云崎ニ
逗留ノ分
廿六文 小遣
廿八文 ハタコ カルイ川
廿文 サカテ 山上
六十五文 九月
十二日 ハタコ 北条
十九文 小遣
五十文 十四日 ハタコ ハツサキ
廿四文 昼休
五十文 駄赁
廿四文 サケ
弐百文 府中ニテ
宿ヘノ礼
三十文 小遣
三十一文 サケ 大馆殿ヘ
タル
廿三文 十七日 コツカイ
三十文 ムシロ
十五文 コツカイ
三十八文 同 廿三日迄ノ
分也
(第六纸表)
五十文 コツカイ
五十文 ムシロ
六十一文 ハタコ
十八文 小遣 廿九日迄
十文 饼
四十五文 箕 行真
十一文 ワラチ
廿二文 ヤトノ下女
壱贯四十三文 ハタコ
九月十四日ヨリ十月二日迄
五人ノ分府中ニ逗留
三十一文 コツカイ
六十文 十月
二日・三日 ハタコ アルマ川
廿文 ヒルヤスミ
名立
六文 ワラチ
六十文 四日 ハタコ ノウニテ
廿六文 小遣
六十文 五日 ハタコ イトイ川
三十二文 ヒルヤスミ以下
六十文 六日 ハタコ 市フリ
廿六文 昼休以下
六十文 七日 ハタコ
十五文 小遣
五十文 八日 ハタコ 三日市
(第六纸里)
十三文 コツカイ
六十文 九日 ハタコ 大津
三十文 ヒルヤスミ
六十文 十日 ハタコ
三十六文 ヒルヤスミ以下
五十文 十一日 ハタコ 新庄
廿四文 小遣
五十文 十二日 ハタコ 舟ノクラ
十三文 小遣
六十文 十三日 ハタコ 横山
三十三文 昼休以下
六十文 十四日 ハタコ 高ワラ
六十文 十五日 同
廿七文 昼休以下
五十文 十六日 ハタコ フル川
十二文 コツカイ
三十文 十七日 ハタコ 大野
五十文 十八日 ハタコ
廿二文 小ツカイ
四十文 十九日 ハタコ 山ノ口
十八文 昼休
七十文 ハタコ 汤ノ嶋
六十文 アサウ ハタコ
十八文 昼休
(第七纸表)
六十文 廿二日 ハタコ 浓州
胜田にて
四十六文 昼休 小遣以下
六十文 廿三日 ハタコ ミノ井ノ口
六十文 廿四日 ハタコ 同井ノ口
十四文 小遣
六十文 廿五日 ハタコ
廿四文 コツカイ
八十文 駄赁 下坂マテ
六十文 廿六日 下サカニテ
ハタコ
六十文 ハタコ 大ハマ
八文 サケ
六十文 坂本ニテ ハタコ
三十文 小ツカイ
三百文 江州シモサカ
ヨリ坂本迄
舟チン
惣已上七贯六百十文
此分国々逗留ノ间并
ノホリノ路銭分
此外下リ路銭分
三贯八百廿八文
惣都合十一贯四百四十文上下ノ
路銭
(第七纸里)
此外
八百八十九文越后国中
ニテノ駄赁
壱贯六百文 悪銭ノ现
此代ハ、悪銭三贯百文越后ノ
府中ノ宿ヘ渡シ、清銭ヲ
壱贯五百文请取リ申间、悪銭现也
百五十文 悪銭ノ现
此代ハ、シモ坂ヨリ船赁
三百文ノ分ニ悪銭四百五十文
渡申间如此也、三百文ハ
右ノ遣足ノ内ニ入申也、
以上弐贯六百四十一文
惣已上合
十四贯八十一文 入目遣足
中世后期の旅と消费─“永禄六年北国下り遣足帐”の支出と场─
(‘国立歴史民俗博物馆研究报告’第一一三集(二〇〇四年三月)) 小岛道裕