Re: [闲聊] [田中稔] 侍・凡下考

楼主: Oswyn (Oswyn)   2024-08-14 22:40:34
以下只是个人囫囵吞枣的无专业整理,举的例子中不太重要的只稍注不译
庭津鸟可鶏乃垂尾乃乱尾乃长心毛不所念鸭
読下文 庭つ鸟鶏の垂り尾の乱り尾の长き心も思ほえぬかも
训み にはつとり かけのたりをの みだりをの ながきこころも おもほえぬかも
现代语 家に饲う鶏の垂れて乱れた尾のような末长い気持も、今は考えられないことだ
大和言叶的鸡=かけ,跟猪=イノシシ是咿咿叫的兽一样,据说是由鸡叫声来的
庭つ鸟这个和歌定型枕词,久而久之取代かけ,现在日文讲到鸡反而=にわとり或とり

和铜元年戊申(715) 天皇御制 元明天皇
大夫之鞆乃音为奈利物部乃大臣楯立良思母
読下文 ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣楯立つらしも
训み ますらをの とものおとすなり もののふの おほまへつきみ たてたつらしも
现代语 勇士たちの鞆を弦がはじく音が闻こえて来る。
もののふの大臣が今しも楯を立てているらしいよ
奈良末期成立的‘万叶集’中
もののふ(物部)的解释=古代仕于朝廷的人、朝官、文武官人
大夫・健男・武士・益荒男・益荒夫的和训读作ますらを、用来表示“强く立派な男”
柿本朝臣人麻吕从近江国上来时至宇治河边作歌一首(660?~724)
物乃部能八十氏河乃阿白木尔不知代经浪乃去边白不母
読下文 もののふの八十氏河の网代木にいさよふ波の行く方知らずも
训み もののふの やそうぢがはの あじろきに いさよふなみの ゆくへしらずも
现代语 もののふの多くの人、その氏──宇治川の网代の木に漂いつづける
波のように、行く末のわからないことよ
八十氏人(やそうぢびと)=许多氏族的人。很多人
物部八十氏(もののふのやそうぢ)=文武百官
宇治河(うぢがは)。这段枕词是为了修饰带出挂词(双关)宇治川
※ 镰仓右大臣(源实朝)
题しらず ‘新勅撰集’巻六・冬歌・歳暮・四三七 槐和歌集(334番)
江戸中 武士のやそうち川を行水のなかれてはやきとしの暮かな
明治写 ものゝふの八十宇治川を行水の流てはやき年のくれかな
训み もののふの やそうちかはを ゆくみつの なかれてはやき としのくれかな
もののふの八十うぢ河を行く水の流れて早き年の暮れかな
当吟诵五十首和歌之时,表达了惜别岁末的情感
金槐和歌集(677番)
江戸中 ものゝふのやなみつくろふこての上に霰たはしるなすのしの原
明治写 武士のやなみつくろふこての上に霰たはしるなすのしの原
训み もののふの やなみつくろふ こてのうへに あられたはしる なすのしのはら
武士の矢并つくろふ笼手(小手)の上に霰たばしる那须の篠原
中世以前的日本和歌惯例上是用大和言叶・和训・训読み
江戸中期的刊本跟明治时代的写本(抄写对像不明但可能是江戸时代或更早的手抄本)
对上述源实朝二首和歌中的もののふ一词出现了分岐
写成もののふ可单纯解释为朝臣、文武百官,若写成武士则是以弓马仕于朝廷的人
上面那首解释为文武百官的话,宇治川是京都附近的河流带出地点未必有深意
就是感叹时光如宇治川的流水转眼岁暮已然到来
但解释为武士的话,宇治川是武士溅血之地,整首歌的意思就不这么平稳了
极端点说,源实朝曰:源氏正统、缩此时毕。子孙敢不可相继之。
武士就爱打打杀杀早点 Over 算了(大误
而もののふのや(武士の矢)这个持弓武士的定型枕词,多挂在や开头的地名
渐渐不需要や,枕词もののふの就代表武士
到最后もののふ=武士,与庭鸟及侍一样,新的意思取代了旧的
同一词汇的意义随时代不断出现改变
从奈良、平安、镰仓、室町、战国、江戸、现代,不断有大大小小的变化
※ 太平记 卷第五 ○大塔宫熊野落事
其邉ノ郷民共ノ欲心ヲ勧テ。宫ヲ他所ヘ帯キ出シ奉ラント相计テ。道路ノ辻ニ。札ヲ书
テ立ケルハ。大塔宫ヲ奉讨タラン者ニハ。非职凡下ヲ不云。伊势ノ车间庄ヲ。恩赏ニ可
被充行由関东ノ御教书有之其上ニ定遍先三日力中ニ。六万贯ヲ可与。御内伺候ノ人。御
手ノ人ヲ讨タラン者ニハ。五百贯。降人ニ出タラシ辈ニハ三百贯。何レモ其日ノ中ニ必
沙汰シ与ヘシト定テ。奥ニ起请文ノ词ヲ载テ。
镰仓末期护良亲王还俗举兵往熊野入十津川,幕府认为派十万骑也打不进十津川
就在路口立牌劝这边的乡民讨伐大塔宫,不论非职凡下都可获得关东保障的恩赏
伊势车间庄=栗真庄,但暗绿色这部分不同刊本有差异,另一版本只写了给六十贯
※ 太平记 卷第十七 ○山门攻事[附]日吉神托事
山门ヲ攻落スヘキ诸方ノ相图明日二アリ。此ノ合战ニ一足モ退タラン者ハ。縦先先抜群
ノ忠アリト云共。无ニ处シテ本领ヲ没収シ。其身ヲ可追出。一太刀モ敌ニ打违ヘテ。阵
ヲ破リ分捕ヲモ。シタランスル者ヲハ。凡下ナラハ侍二ナシ。御家人ナラハ。直ニ恩赏
ヲ可申与。サレハトテ独高名セントテ。拔悬スヘカラス。又傍辈ノ忠ヲ猜テ危キ处ヲ见
放ツヘカラス。互ニ力ヲ合セ。共ニ志ヲ一ニシテ。
※ 朝仓始末记卷之八 一揆与大将合战之事
(天正二年)同十一月上旬ノ比ヨリ一揆ノ健民等坊主共ヲ可讨捕トノ郁愤事……
若林长门守野岛两人ヲ武者大将仅ニ二百余骑杂兵五百余人牛カ岛表ニ支ヘタリ。然ニ
若林诸卒ニ向テ下知シケルハ此度ノ合战。一足モ退タラン者ハ纵ヒ前々ノ忠アリト云
トモ无キ者ニシテ本领ヲ可没取。一太刀モ敌ニ讨合セテ阵ヲ破リ分取リヲ仕タラン者
ハ。凡下ナラハ侍ニ成。武士ナラハ直ニ恩赏ヲ可与。又高名セントテ独不驱拔互ニ力
ヲ合セ共ニ志ヲ一ニシテ讨トモ讨ル、……

‘太平记’中足利尊氏自九州反攻,在凑川之战大破新田义贞・楠木正成
准备攻后醍醐遁笼的比叡山时下达
此战退后一步的人,纵然过去有拔群之功,也会没收全部的领地,并被追放
立功之人,凡下的话可成为侍,御家人的话可获恩赏,&不要争先单挑,要互助合力
后世的军记物‘朝仓始末记’中直接致敬了‘太平记’中的这一整段
但御家人被替换成了武士
凡下可成侍,御家人可得恩赏。 那侍=御家人吗?
凡下可成侍,武士可得恩赏。 那侍=武士吗? 在身分上武士=御家人吗?
很微妙,‘太平记’中是因为修词而改用不同用语
或是侍与御家人其实存在差异,但为何略过侍立功的话能成为或得到什么?
但个人感觉这里的侍可能=上一篇文中提及的“侍品”=地侍阶级
已经随时代往下沿伸,也就是差不多=战国时代的军役众/同心
※ 甲阳军鉴 起卷第一
子细は我等、元来百姓なれ共、不虑に十六岁の春、召出され、地下をいで春日源五郞に
なり、奉公申、
一敌方にても、一国を持给ふ侍は、なに大将か大将と申さず、
子细は日本国をあつめても、百人にたらず、六十六人の武士なり、さる程に、一国をも
つ大将の中に、古来からの侍をば、家をたつとび、うやまふべし、しいでの国持侍をば

元来是百姓,被召出成为地下(侍)春日源五郞,开始奉公
即便是敌方,持有一国的侍,也不是随便就能称为大将
细数整个日本国也不到百人,仅有六十六名武士
拥有一国的大将中,出身古来的侍之家应该被尊敬
先不管这就是在捧武田出身好棒棒
在军记物中,武士、侍、地下这些用语的区分
古来的侍=武士=大将,百姓奉公成为地下
这些阶级上下是有明显差异的,但经江戸时代长期承平&近代日文现代化的影响
从外面看武士(上士)与武家奉公人(下士)的差异被扁平化
两者都被视为士族,而士族被当成武士,造成混乱
作者: Gogoblue   2024-08-24 14:25:00
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