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<明智光秀>密书の原本発见 本能寺の変直后、反信长派へ
9/12(火) 3:00配信
本能寺の変で织田信长を讨った重臣の明智光秀が、反信长势力とともに室町幕府再兴を
目指していたことを示す手纸の原本が见つかったと、藤田达生(たつお)・三重大教授
(中近世史)が発表した。変の直后、现在の和歌山市を拠点とする纪伊雑贺(さいか)
众で反信长派のリーダー格の土豪、土桥重治(つちはし・しげはる)に宛てた书状で、
信长に追放された十五代将军・足利义昭と光秀が通じているとの内容の密书としている
。【松本宣良】
藤田教授によると、书状は岐阜県の美浓加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で
伝えられ京都府の古书店に渡ったものを美浓加茂市の笃志家が入手して寄赠したという
。
鸟居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文库长らとの共同调査で、形状や纸质などから手
纸の原本と断定し、笔致や署名、花押から光秀自笔の可能性が高いと结论づけた。本能
寺の変に関する光秀自笔の书状は极めて珍しい。
书状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日后の12日付で、返
信とみられる。“上意(将军)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがた
く存じます。しかしながら(将军の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承
诺しています”とあった。
京を追放された义昭は当时、中国地方を支配する毛利辉元(てるもと)の势力下にあ
る鞆(とも)の浦(広岛県福山市)にいた。义昭が京に戻る际は协力することになって
いると重治から示され、光秀自身も义昭と既に协力を约束していることを伝える内容と
いう。
书状の手书きの写しは东京大史料编纂(へんさん)所に残っていたが、原本は縦11
.4センチ、横56.8センチで、细かな折り目がついていた。畳んで书状を入れる包
み纸も一绪にあったことから、使者が极秘に运んだ密书とみられる。
本能寺の変の动机では、2014年に冈山県で见つかった石谷(いしがい)家文书な
どから、光秀と恳意で信长と敌対関系になった四国の戦国大名、长宗我部元亲(ちょう
そかべもとちか)の穷地を救うために起こした“四国说”も浮上している。
光秀は京に上る前の信长と义昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。藤田教
授は“义昭との関系を复活させた光秀が、まず信长を倒し、长宗我部や毛利ら反信长势
力に奉じられた义昭の帰洛を待って幕府を再兴させる政権构想を持っていたのでは”と
话す。
光秀は书状の日付の翌日、备中高松城(冈山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に
山崎の戦いで败れ、逃げる际に命を落とした。
◇発见された书状の现代语訳
◆本文
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの惯用表现>、上意
(将军)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしな
がら(将军の)ご入洛の件につきましては既に承诺しています。そのようにご理解され
て、ご奔走されることが肝要です。
一、雑贺众が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますその
ように心得られて、相谈するべきこと。
一、高野众・根来众・雑贺众が相谈され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出阵
されることはもっともなことです。恩赏については当家の家老とそちらが话し合い、后
々まで互いに良好な関系が続くように、相谈するべきこと。
一、近江(滋贺県)・美浓(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それ
がかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸=书状では冒头にあり
なお、必ず(将军の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。详细
は上意(将军)からご命じになられるということです。委细につきましては(私からは
)申し上げられません。
訳・藤田教授
【ことば】本能寺の変
天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の织田信长が谋反した明智
光秀に袭われ自害した。信长は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出阵する途中だった。秀吉は
急きょ引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破った。光秀の动机は信
长の隙(すき)に乗じ天下を狙った“単独谋反说”や“怨恨(えんこん)说”など诸说
ある。