[讨论] 岛津豊久の春川笼城戦

楼主: lonelysin (一目ぼれ)   2016-12-01 12:10:16
<岛津忠豊(豊久)春川笼城戦>
 文禄元年(1592)初春。岛津又七郎忠豊が守る朝鲜国江原道の春川(チュンチョン)城
は、蜂起した义军六万骑(公称)によって二重三重に取り囲まれていた。
“奴らめ、撤退したのでは无かったのか”
 実は、春川城に敌军が押し寄せてきたのは二度目。最初の时は即座に永平
(ヨンピョン)の岛津义弘に后诘を依頼。即座に后诘の人数を催し駆けつけてくれた
のだが、増援を远望した敌军は一戦も交える事なく退却してしまい、
义弘势も汉城などの守备の为に帰还していた。
 だが、撤退した筈の敌军は后诘が引き上げると再び蜂起し、あっと言う间に春川城
を包囲。攻め鼓を打ち、息もつかせぬ攻城戦を开始した。
 この时、城内の兵力は马上三十数骑、兵五百余り。しかも頼みの城は普请中の
未完成で防卫机能は不完全。忠豊は下知した。
“この城、普请も未だ丈夫ならず。殊更、后诘の势を相待つ间も无し。
是、十死一生なり”
 敌は圧倒的大军で完全包囲され、逃げ场は无い。城は笼城に耐えず、
援军到着までの时间稼ぎは不可能。この绝体绝命の危机に际して、
主従の出した结论は───
“善く戦う者は死せず! 助かる道は敌を撃灭せぃ!”
“““チェスト─!”””
 忠豊は寄せ手が城壁を乗り越えようとするまで接近させた上で、百丁の鉄炮で
斉射十连。敌军先手を败走させるや、全军に真丸になって斩って出るよう下知。
縦横无尽に悬け破った。
 敌军は仅かの小势に悬け立てられ、这々四方に引き退く。忠豊はこれを少々
追い打ちし、軽々と城に引き取った。
 その时、讨ち取る首级七十余り、左の耳と鼻を切って名护屋に献上し、感状
を赐る。(征韩录)。
 
别の史料では五百三十余りを讨ち、うち二人は将だったので首冢を筑いたとも。
 岛津又七郎忠豊、后の豊久の笼城戦である。
译:
文禄元年(1592)初春,岛津豊久奉命守位于朝鲜国江原道的春川城,遭到铺天盖
地的六万(*)朝鲜军团团包围。
“这群家伙、不是已经撤退了吗?!”
实际上,这已是第二次敌军包围春川城。第一次是靠着驻扎在永平的岛津义弘军
及时佯袭敌后解围。 藉著聚集的军势奔袭之故,看到增援的敌军在没交战下便自
行撤退,而后义弘军为了汉城的守备先行回防。
可是,早该撤退的敌军却随着援军撤退再次涌现,不久之后便将春川城包围。
攻击的鼓声响起、一鼓作气地开始攻城战。
此时,城内的兵力不过三十几骑兵、步兵五百多人。 除此之外,凭借的城防御
工事还在建设中,防卫机能不完全。 丰久便如此下令..
“春川城、防御工事还不完全。此外,也没有等援军的余裕。正是,十死一生
之危!!”
人数压倒的敌军完全包围、也没有可以逃的地方。城池不堪笼城、撑到援军到
达也不可能。 在这逃无可逃的危机之际,众将讨论出的结论是───
“奋力一战者死不了! 击灭敌军是唯一方法!”
“““切斯透─!”””(萨摩方言,激励时所喊的声音。)
爬过城墙接近的敌军被丰久以百挺铁炮齐射十次。敌军先锋被击退后、
全军以圆阵衔命杀出,毫无悬念的踏破敌军。 敌军仅因这微薄的军势而
被击退,四面八方鸟兽散逃。 丰久在稍微追击敌军后,毫无阻碍的率军
回城。
那时,讨取的首级有七十多个、左边的耳朵跟鼻子切掉后送去名护屋献
上、而被赐予感谢状。(征韩录)
别的史料则是讨取五百三十多首级、以我方两将为首建立首冢供奉。
 岛津又七郎忠豊、即后来的丰久笼城战。
*...据其余资料为江原道助防将元豪与朴浑一同率兵数千攻击只有五百人
左右的春川城,丰久率军从城里杀出讨取七十多个首级将朴浑击退。
此战在朝鲜方也有记载,人数不明。(上述来源不明)
作者: bluewild (bluewild)   2016-12-01 12:18:00
笼城方太弱,留一个出口是基本概念吧@@
作者: jfy (天之子)   2016-12-01 12:36:00
一开始评敌军再度来袭那句写‘这群人/家伙不是撤退了吗’应该会比较接近原意;然后岛津军杀出去时是圆阵。
作者: reprobate (传说之瓜)   2016-12-02 09:23:00
作者: chuckni (SHOUGUN)   2016-12-02 18:13:00
六万太扯了,义军少一个零我还相信
作者: diablo81321 (流月城七杀提督)   2016-12-05 23:40:00
五百打六千就算是守城也很强大喇 切死他~~~

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