[讨论] 1561年三河牛久保城の戦い

楼主: Oswyn (Oswyn)   2016-05-08 04:46:06
1549、天文18年9月18日
今川义元、三河荒川山に出阵し、西条の城将吉良义昭を攻む、
1549、天文18年11月9日
临済寺崇孚、(太原)、今川义元の命に依り、再び织田信广を三河安祥城に
攻めて、之を擒ふ、寻で、崇孚、先に织田氏に质たる松平竹千代(家康)と
信广とを交换す、
织田信广被俘交换竹千代。
1556、弘治2年4月是月
三河西尾城将吉良义昭、织田信长に通じ、东条城に移り、牛久保城将牧野成
定をして、西尾城を守らしむ、
三河西尾城(西条城)的吉良义昭结合织田信长再次反抗今川氏。自己移往东条城,将
西尾城交由牛久保城将牧野成定防守。一说是由成定养父牧野贞成入城,后战败贞成隐
居,由牧野成定继迹。
1556、弘治2年5月24日
织田信长の部将日近定直、今川义元の部将栗生永信を三河秦梨子城に攻めて
、败绩す、
信长介入三河。
1556、弘治2年8月4日
今川义元、松平元信の部将菅沼定村等をして、织田信长の部将奥平贞能を、
三河雨山城に攻めしむ、是日、城陷り、定村、戦死す、
织田势下的奥平氏。
奥平贞能 松平氏→今川氏→织田氏→今川氏→徳川氏→武田氏→隠栖
奥平定能 今川氏→徳川氏→武田氏→徳川氏
奥平家跟真田家相比没比较逊色!?能在乱世这样流转存活下来也是种实力就是了。
1557、弘治3年10月27日
今川义元、牧野成定をして、三河西尾城を守らしむ、是日、义元、其条规を
定む、
今川议员命令牧野成定防守西尾城。
【信长公记】中有二段与吉良有关的有趣记录,但并无发生年代的记述。第一段新编安
城市史中推测发生于1557年。第二段有说法是发生在桶狭间合戦后、诸说阿鲁。
四月上旬、三川国吉良殿と武卫様、御无事御参会の扱ひ、骏河より吉良殿を
取り持ち、相调へ侯て、武卫様御伴に、上総介殿御出阵。三州の内、上野原
に于いて、互に人数立て备へ、其间一町五段には过ぐべからず。申すに及ば
ず、一方には武卫様、一方には吉良殿、床木(しょうぎ)に腰をかけ、御位
のあらそひと相闻こえ、十足计り宛(づつ)双方より真中へ运び出だされ、
别の御品も御座なく、又、御本座に御直り候なり。
大意为斯波(武卫)、吉良二个足利一门会面谈判(其实各站在二人后面的上总介信长
与今川议员才是老大吧)。椅子都放好了却为了争谁的家格高(上座)而无法入座。结
果互相站在十步左右的距离对看连招呼都没打就解散。
尾张国端海手へ付いて石桥殿御座所あり。河内の服部左京助、骏河众を海上
より引入れ、吉良・石桥・武卫様仰谈らはれ、御谋叛半の刻、家臣の内より
漏れ闻え、即御両三人御国追出し申され候なり。
吉良・石桥・武卫密谋从海路引今川势入尾张国,风声走漏事败被信长追放出尾张国。
1560、永禄3年5月19日
织田信长、今川义元を尾张田楽狭间に袭撃して、之を斩る、
【桶狭间】;一说此时期吉良义安与家康同样由人质解放回到三河。
1561、永禄4年4月11日
【牛久保城の戦い】
牛久保城主牧野成定受今川家指示率牛久保众主力防守西尾城、本处牛久保城
由宿老宿老稲垣重宗及真木氏留守。牛久保众除主力于西尾城外还在野田城当
番守备,牛久保城的守备薄弱。
家康事前对东三河国人众进行工作同时也对牛久保众的稲垣林四郎、牧野弥次
右兵卫尉、牧野平左卫门尉父子等有力家臣近行调略,于永禄4年4月11日
对突然对牛久保城进行奇袭(夜袭)同时西尾城也受到不分日夜的攻击。
留守居的稲垣重宗当时并不在城内而是回到自领贺茂,城内只有少数人在番一
时陷入落城危机。但由于真木氏一族的奋战和稲垣重宗突围回城防守遂击退松
平势死守住城池。
后牧野成定弃守西尾城趁夜退回本处牛久保城、同时野田城内的牛久保众也发
觉有松平方内应而退回牛久保城。
此役真木越中守定安奋战讨死真木家还留有氏真写给其二名遗子的感状记录。
1561、永禄4年4月12日
松平元康、今川氏真と绝つ、
前日发生的牛久保城の戦い以家康偷袭失败告终,但这也是今川方首次得知家康脱离今
川氏自立并反叛的事件。之后今川势牧野出羽守保成・朝比奈纪伊守泰长始激烈反击。
1561、永禄4年是春
松平元康、织田信长と和し、松平好景をして、今川氏真の部将板仓弾正を三
河中岛に攻めしむ、弾正败走す、
1561、永禄4年是春
三河形原城将松平家広等、今川氏真に背き、松平元康に属するに依り、氏真
、其质子を杀す、
1561、永禄4年4月15日
三河吉良义谛の兵、酒井忠尚を同国上野に攻む、中岛城将松平好景、其子伊
忠をして、忠尚を赴援せしむるに依り、义谛、好景を攻めて、之を杀す、
【善明堤の戦い】
深沟松平氏好景率军追击假装败退的吉良军中伏无人生还。
通说此战发生于1561年4月15日。但近年家忠日记解读此战可能发生于
1556年;好景之孙家忠于天正6年(1578年)3月4日祖父的23回
忌(祖父大炊助二十三年の心さし候)记述。二种异说在阵营上完全不同。
松平(深沟松平)VS今川(吉良);今川(深沟松平)VS吉良(织田)
1561、永禄4年4月是月
今川氏真、三河东条城将吉良义安の、松平元康の外戚なるに依り、之を骏河
薮田村に移し、义安の弟西尾城将吉良义谛をして、东条城を守らしめ、牛久
保城将牧野成定をして、西尾城を守らしむ、
一说氏真怀疑义安有谋反的嫌疑再次被移往骏河,将其弟义昭(义谛)移往东条城合并
东、西两吉良氏。并将西尾城再次交由牛久保城将牧野成定防守。
1561、永禄4年是夏
吉良义谛の同族荒川义広、松平元康の部将酒井正亲等の援に依り、牧野成定
を同国西尾城に攻め、之を陥る、元康、正亲をして、之を守らしむ、
吉良氏一门的荒川义広加入松平势攻击吉良义昭。后因功娶了家康的异母妹・市场姫。
1561、永禄4年7月是月
今川氏真の将大原资良、菅沼定盈を三河野田城に攻め、之を降す、
1561、永禄4年9月13日
松平元康の部将本多広孝、吉良义谛を三河东条城に攻めて、之を降す、元康
、义谛を冈崎に移し、鸟井元忠、松平信一をして、东条城を守らしむ、
【藤波畷の戦い】
吉良方的勇将富永忠元在斩杀松平势的大久保大八郎・鸟居半六郎后力尽被本
多広孝补枪而亡,而失去忠元的义昭丧失战意献城投降。
1562、永禄5年1月是月
松平元康、尾张清洲に赴き、织田信长と盟约す、信长、又林通胜及び菅谷九
右卫门を冈崎に遣して、之に答谢す、
【清洲同盟】。
1562、永禄5年2月4日
松平元康、三河上郷城を攻めて之を陥れ、城将鹈殿长照を斩る、寻で、长照
の二子を今川氏真に送り、元康の妻子と交换す
松平势攻陷今川亲族的三河鹈殿氏居城,斩杀城主鹈殿长照并以其二子交换元康妻子。
1562、永禄5年5月7日
松平元康の兵、今川氏真の部将牧野成定を三河富永に攻む、寻で、又之を攻
む、
1562、永禄5年6月是月
今川氏真、松平元康の属城三河一宫砦を攻むるに依り、元康、之を赴援す、
氏真、武田信虎の、骏河に在りて异心を懐くと闻き、军を班す、
1562、永禄5年9月29日
今川氏真の兵、松平元康の属城三河御油を攻むるに依り、元康、赴援して、
之を破る、寻で、同国牛久保城将牧野成定、元康に降る、
关于牧野氏归顺松平氏的时间诸说,有“寛政重修诸家谱”的1566、永禄9年5月
,“牛洼记”的1565、永禄8年3月。东京大学史料编纂所的史料総合DB定调在
这个时点。
此记录的参考史料:牧野文书、三川古文书、千贺家文书、三河物语、松平记
、家忠日记増补、寛永诸家系図伝、[参考]武徳大成记、[参考]武徳编年
集成、[参考]朝野旧闻哀稿、[参考]落穂集、[参考]寛政重修诸家谱
1562、永禄5年12月14日
今川氏真、部将远江井伊谷城将井伊直亲の、织田信长及び松平元康に通ずる
を疑ふ、直亲、骏河府中に赴きて、弁明せんとし、途に挂川城将朝比奈备中
守の为に杀さる、
【远州错乱】,桶狭间后远江国一连串的不详事造成各国人疑心生暗鬼。各种暗杀、谗
言、斗争、背叛的错乱状态一发不可收拾。
1563、永禄6年是秋
三河佐々木城将菅沼定顕、同国一向宗上宫寺に违乱を为すに依り、同寺、本
証寺及び胜鬘寺と谋りて、一揆を起す、酒井忠尚、吉良义昭、荒川义広、松
平家次、夏目吉信等、之に党し、其主松平家康に抗す、
【三河一向一揆】,吉良义昭夺回东条城笼城对抗家康。
1564、永禄6年闰12月16日
今川氏真の部将远江引间城将饭尾致实背くに依り、氏真の兵、之を攻む、是
日、氏真、朝比奈右兵卫大夫の戦功を褒す、
今川氏远江国引间城主饭尾连龙反乱起。
1564、永禄7年2月28日
三河一向宗门徒、松平家康に降る、寻で、松平家次降り、荒川义広、吉良义
昭、酒井忠尚、败绩して、出奔す、
1565、永禄8年12月20日
今川氏真、远江引马城将饭尾致实を骏河府中に诱杀す、
氏真诱杀已谈和的饭尾连竜,造成今川氏的信用进一步下降。
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清和源氏足利氏支族、三河吉良氏,足利一门中的名门、今川氏为其分家。本处吉良庄
以矢作川东西分割各称为东条、西条。室町时期分裂为东条与西条吉良氏互相主张拥有
正统性,二者的子孙持续对抗了约一世纪造成吉良氏实力低下反被庶流的今川氏压迫。
意识到同族抗争的愚蠢东条吉良的持広将西条吉良的义安收为养嗣子议和,并结合尾张
织田氏对抗今川氏。尔后吉良氏数度反抗今川氏都被放过乃因其为今川宗家。
吉良义安
东条吉良氏当主,吉良义尧次男。1549年受到今川氏的猛攻败退(安祥城
之战)被今川军补获送往 骏府为人质。今川义元命其弟义昭继承东条吉良氏。
据说骏府人质其间与松平松平竹千代友好,家康元服之际为其理髪役。弟义昭
逃亡后家康认可其家督継承、后代的吉良义央以引发元禄赤穂事件(忠臣蔵)
闻名。
吉良义昭(义谛)
西条吉良氏当主,吉良义尧三男。兄义安被送往骏府家名存続许,后继承东条
吉良氏、东西吉良氏统一。1560年桶狭间の戦い后三河今川氏支配力减弱
,与意图支配三河国的松平家康对立,几度交战后一时松平氏降服。1563
年趁西三河一向一揆爆发之际再次反抗松平氏后失败逃亡。
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三河牧野氏
日本戦国时代东三河在住的国人领主。起源有四国的阿波・讃岐国豪族田口氏
后代、大和时期地方官未裔、神官・神职家庶流末裔等诸说。
牛久保六骑
牛久保城主牧野氏寄骑众,牧野山城守、稲垣氏、山本氏、岩瀬氏、真木氏、
野瀬(能势)氏。
主要参照:东京大学史料编纂所大日本史料総合データベース
本来只想写个牛久保城の戦い始末,不过补著补著好像歪了。
作者: a7v333 (蠢与穷)   2016-05-08 10:07:00
作者: ocean11 (深海)   2016-05-08 11:11:00
这是照当时的农历还是换算成现在的阳历了?

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