[闲聊] 十六、七世纪耶稣会日本报告集

楼主: Oswyn (Oswyn)   2016-10-01 21:41:29
白峰旬教授之研究NOTE
‘十六、七世纪耶稣会日本报告集’中关于军人数(兵力数)之记载
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk01807
教授在要旨与前言中提到了‘十六、七世纪耶稣会日本报告集’是耶稣会宣教师在日本
进行布教活动相关的成果报告。但其中与布教活动无直接关系的地方记载了诸大名之军
役人数(兵力数)的具体数字。并不了解其是基于什么理由而抱持着这种关心、、、
其结论中提到这有可能是对豊臣政权时代的天主教大名如小西行长、黑田如水等人的期
待非常大。可以显示他们接近政权中枢代表传教活动的进展。或者在豊臣政权与耶稣会
的方针对立时能确保有多少军事力量的具体调查。
这或许是当时的耶稣会于军事性的意图想要利用些大名的想法之浮现。
以下节录整理文中的表格、详细注释与引用请参照上方原文连接。
表1 ‘十六・七世纪イエズス会日本报告集’における军役人数・石高関系の表
西暦 事    项 备   考
——————————————————————————————————————
1581 信长→骑马の武士およそ500名 信长の祭(左义长)
柴田胜家→1万の家臣と1万の人夫 信长の别の祭
武田信玄 (武田胜頼ヵ)→1万5000の兵 高天神城へ粮食を运ぶ
信长→骑马の士500名 信长の祭(左义长)
1583 前田玄以の俸禄に4000クルザードを上积み 秀吉が加増したした
1584 米1000俵 大野城の贮蔵米(龙造寺隆信)
1585 雑贺攻めの秀吉の军势→10万を超えていた 秀吉の雑贺攻め
宇喜多秀家( 18才〔14才ヵ〕)→2万の兵 秀吉の雑贺攻め(行军の先阵)
蒲生氏郷→5000の兵 秀吉の雑贺攻め(行军では先
阵の宇喜多秀家の次)
蒲生氏郷→伊势に米25万俵以上の収入
    →戦さに行く时は、自分の旗の下
 に6000余の兵を率いる
小寺官兵卫→播磨に米6万俵の収入
市桥兵吉→美浓に米2万俵を超える収入
牧村长兵卫→近江に米2万5000俵の収入 秀吉の马廻众の头
瀬田左马丞→ 近江に米1万2000俵以上の
収入
小西行长→2万俵近い収入
龙造寺隆信→2万5000の兵 冲田畷の戦い(天正12年)
1588 小西行长→32万俵以上の収入 肥后半国の领主になる
1589 高山右近→2万俵の禄
→戦役がおこっても秀吉に仕える
 义务(=军役)はない
1590 高山右近→年4万俵の封禄
     →责务(=军役)を负っていない
1591 有马晴信→2000の兵 朝鲜出兵
大村殿(大村喜前)→1000の兵
小西行长→1万5000の戦士+水夫、粮秣商、
 その他必需品运搬要员
大友义统→6000の兵
黒田长政→4000の兵。大友义统の6000と
 合计して1万の兵
    →水夫や他の运搬要员は除外して
 1万
龙造寺殿(龙造寺高房)
     →8000の兵。加藤清正への援军。
岛津侯(岛津义弘)
     →8000の兵。毛利吉成への援军。
小西行长が総大将
名簿によってわかった総数は30万で、その
中の将兵は20万
※将兵以外は10万ということになる
1591・ かの4名の大将(小西行长・黒田长政・ 朝鲜出兵
1592 加藤清正、毛利吉成)に率いられた将兵を
除いても総势20万はいた
1595 20万の兵力 朝鲜出兵
1596 5万名の兵士が饥馑や种々の疫病によって 朝鲜出兵
死んだ
この戦争で戦死した5万の将兵 朝鲜出兵
1599 家康は3万の军势を自分の诸国から招集 家康への诘问の时の対応
した
石田三成→6000の武装した军势に守られな 石田三成の失脚の时の対応
がら夜を过ごしていた
1599~ 明石扫部→毎年5000石(3500クルザードに
1601 相当)の収入
豊臣秀頼から织田秀信に対して米2000石 织田秀信が豊臣秀頼に味方した
ないし3000石がもたらされた(米2俵が 时の対応(関ヶ原の戦い)
1石である)
豊臣秀頼が织田秀信に対して4万 织田秀信が豊臣秀頼に味方した
クルザードに相当する美浓と尾张のすべ 时の対応(関ヶ原の戦い)
ての扶持を与えた
毛利秀元→およそ1万2000人くらいが城塞 関ヶ原の戦い
 を修复し、出阵の准备をしていた
伏见城→2000名の兵(家康侧の兵力) 関ヶ原の戦い
大坂城に集结→わずかの间に10万を超えた 関ヶ原の戦い
尾张の城(清须城)→约3万の兵が集结した 関ヶ原の戦い
美浓国→奉行の石田三成が6000ないし7000 関ヶ原の戦い
の兵を率いて、尾张に攻め入ろう
と、今か今かと待机していた
治部少辅(石田三成)の城(大垣城) 関ヶ原の戦い
→萨摩の国主(岛津义弘)と小西
 行长が若干の兵を率いて来着し
ていた
黒田官兵卫→8000以上の兵とともに、敌侧 石垣原合戦
についていた豊后国へ出阵し

大友义统→4000近い兵を率いて豊后に入り 石垣原合戦
 (后略)
诸奉行→その军势を可能なかぎり美浓国に 関ヶ原の戦い
集结させようとした。その结果、
8万の兵を集めることができた。
家康→味方の军势と合流しておよそ5万の 関ヶ原の戦い
军団を结成し、翌日の戦闘开始を
命じた
毛利辉元→その诸领主から来た兵すべて 関ヶ原の戦い
 4万
小西行长→朝鲜(における)行军と戦役 朝鲜出兵
    →20万に近い军势の最高(指挥官)
1600 (尾张の)城(=清须城)→3万の军势 関ヶ原の戦い
→岐阜城へ突入
石田三成→6000~7000の军势 関ヶ原の戦い
→美浓国に大势を待机
    →尾张のその地域へ侵入できるよう
 にしていた
黒田官兵卫→豊前国に8000の军势を有した 石垣原合戦
     →豊后国の方へ率いて行った
大友义统→4000の军势を率いて豊后へ到着 石垣原合戦
奉行たち→军势を美浓国へ集结させ、8万人 関ヶ原の戦い
が集结した
3万にも満たぬ敌の军势(=家康方の军势)関ヶ原の戦い
家康→美浓(尾张ヵ)にいた军势と合流し 関ヶ原の戦い
、そのうえ5万の军势を拥するよう
にした
毛利辉元→己が诸领国から4万の军势をも 関ヶ原の戦い
召集していた
伏见→4人の队长の4つの旗のもとに6000 伏见の守备队
の兵からなる守备队がいて、市
(まち)(=伏见)を守っている
1614 伏见の要塞に置いていた自分(家康)の4 伏见の守备队
人の队长のうちの一人→山口直友に50人の
兵士を引き连れてできるだけ早く长崎に急
いで行くように命じた
山口直友→十分な数の兵士の小队を率いて 家康による山口直友の长崎派遣
到着した
1618 奥州にいる7人の有力な领主 东北の诸大名の石高
笔头は、伊达政宗
  →毎年の収入は米120万俵
第二の领主、蒲生忠郷
  →伊达政宗と同じくらい多额の年収
第三の领主、上杉景胜→70万俵
第四の领主、南部利直→30万600俵
第五の领主、鸟居忠政ヵ→24万俵
第六の领主、相马利胤
  →この领主の年収についてはよく判ら
ない
第七の领主、津軽信枚→8万俵
出羽国は、2人の领主によって分割されて
いる。
佐竹义宣→36万俵
最上义俊→48万俵
——————————————————————————————————————
※表1における典拠の各略称については、本稿の注(1)を参照。
表2 朝鲜出兵(文禄の役)における诸将の动员人数
(‘十六・七世纪イエズス会日本报告集’)
所属番队 部将名 城  地 石  高 兵力数A 兵力数B 兵力数Aの军役基准
—————————————————————————————(1万石につき何人)
1番队 有马 晴信 肥前日野江 40000石 2000人 2000人 500人
1番队 大村 喜前 肥前大村 27000石  1000人 1000人 370人
1番队 小西 行长 肥后宇土 200000石 15000人 7000人 750人
3番队 大友 义统 豊后府内 378000石  6000人 6000人 159人
3番队 黒田 长政 豊前中津 180000石  4000人 5000人 222人
2番队 龙造寺高房 肥前佐贺 309000石  8000人 12000人 259人
4番队 岛津 义弘 大隅栗野 619000石  8000人 10000人 129人
——————————————————————————————————————
【出典】
松田毅一监訳‘十六・七世纪イエズス会日本报告集’第Ⅰ期第1巻
(同朋舎出版、1987年、275页)
※所属番队、城地、石高、兵力数B、兵力数Aの军役基准については、表2の作成に
 あたり补足した。
表3 诸大名などの俵高を石高に换算した表
(‘十六・七世纪イエズス会日本报告集’)
名 前 俵    高 石高に换算 通说の石高 西 暦
——————————————————————————————(注1)————
蒲生 氏郷 米250,000俵以上の収入(伊势) 125,000石 120,000石 1585
小寺官兵卫 米 60,000俵の収入(播磨) 30,000石 1585
市桥 兵吉 米 20,000俵を超える収入(美浓) 10,000石 1585
牧村长兵卫 米 25,000俵の収入(近江) 12,500石 1585
瀬田左马丞 米 12,000俵以上の収入(近江) 6,000石 1585
小西 行长 20,000俵近い収入 10,000石 1585
小西 行长 320,000俵以上の収入(肥后半国) 160,000石 146,000石 1588
高山 右近 20,000俵の禄 10,000石 1589
高山 右近 年 40,000俵の封禄 20,000石 1590
明石 扫部 毎年5,000石(3500クルザードに相当) 5,000石 1599~1601
の収入(注2)
伊达 政宗 毎年の収入は米1,200,000俵(注3) 600,000石 615,000石 1618
蒲生 忠郷 伊达政宗と同じくらい多额の年収 600,000石 600,000石 1618
上杉 景胜 700,000俵(注4) 350,000石 300,000石 1618
南部 利直 306,000俵 150,300石 100,000石 1618
鸟居忠政ヵ 240,000俵(注5) 120,000石 120,000石 1618
相马 利胤 年収はよくわからない(注6) 不明 60,000石 1618
津軽 信牧 80,000俵 40,000石 47,000石 1618
佐竹 义宣 360,000俵 180,000石 205,800石 1618
最上 义俊 480,000俵 240,000石 570,000石 1618
——————————————————————————————————————
(注1)表3における“通说の石高”については‘角川新版日本史辞典’(角川书店
、1996年、1269、1272页、1293~1296页)の“豊臣大名表”、“近世大名配
置表”をもとに记载した。
(注2)明石扫部については俵高ではなく、石高で记载されている。
(注3)“ 伊 达 、或いは 伊 达 政宗”と记されていて、“ダテ”以外に“イダテ”
という読み方も当时存在したこと ダ テ イ ダテがわかる。
(注4)上杉景胜は“奥州にいる七人の有力な领主”の一人として记されているが、
上杉景胜は米沢城主(出羽)であるので、陆奥国(奥州)ではなく出羽国の
领主である。
(注5)訳者(鸟居正雄氏訳)は“(戸沢政盛、鸟居忠政、酒井忠胜か)”と记して
いるが、戸沢政盛と酒井忠胜は元和8年入封であり、この记载は元和4年の
时点のことを记しているので、戸沢政盛と酒井忠胜は该当しない。
(注6)“ソマイダゼン”と记されていて、具体的な人物比定をしていないが、これ
は“相马大膳”という意味であると考えられるので、相马利胤(相马大膳)
に比定できる。
※それぞれの项目の史料典拠(‘十六・七世纪イエズス会日本报告集’)の巻数、页
数については表1を参照。
作者: bilice   2016-10-01 22:19:00
该年代的传教士本来就身兼间谍。几乎人人都是这不是常识吗
作者: hazel0093 (heart-work.info)   2016-10-01 22:44:00
报告给教宗知道啊,看看能不能利用
作者: kojiro   2016-10-01 23:03:00
小西行长肥后办国石高数是不是打错了?? 146万石??
作者: jimmy5680 (不太会飞的企鹅)   2016-10-02 00:52:00
耶稣会不只是间谍,还是军事顾问可参考小弟拙文 #1M0vSTUW (Warfare)
作者: RollingWave (Lost in the Dark)   2016-10-02 01:03:00
教士本来就要快点派忍者或是艺妓干掉练等(错台)
作者: tucker (苦恼的尼采)   2016-10-02 10:13:00
怎么1585年那条宇喜多秀家的年龄差了4岁?
作者: cito (シト)   2016-10-02 13:08:00
14才比较合理(1572或1573生 古人算虚岁)
作者: Yenfu35 (廣平君)   2016-10-02 22:10:00
才14岁就能带2万兵@@
作者: gfdsa (假扮的大仁哥)   2016-10-04 22:50:00
宇喜多三老表示

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