Re: [情报] 村上春树 公开采访 in 京都

楼主: nono0520 (和米基喝杯咖啡)   2013-05-12 05:36:13
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0602C_W3A500C1000000/
村上春树さんの公开インタビュー
2013/5/6 22:43
作家の村上春树さんが6日、京都大学の百周年记念ホールで讲演した。つづいて行われ
た文芸评论家の汤川豊氏による公开インタビューの内容は次の通り。
汤川豊さん 先ほどの河合さんについての话を兴味深く闻きました。村上さんは“海辺
のカフカ”のときの长いインタビューで“人间は2阶建てであり、1阶、2阶のほかに
地下室があってそこに记忆の残骸がある”とおっしゃっていた。その上で“本当の物语
はそこにはない。もっと深いところに地下2阶があって、そこに本当の人间のドラマや
ストーリーがある”と。それを闻いて“なるほど”と思いました。河合さんとは“物语
”というコンセプトでは共有していたとのことですが。
村上春树さん 仆は以前から地下1阶の下にはわけの分からない空间が広がっていると
感じていました。多くの小说や音楽は(作家や音楽家が)记忆や魂の残骸が残っている
地下1阶を访れることで书かれているが、それでは人の心をつかまえるものは生まれな
い。(米国の作家)スコット・フィッツジェラルドは、人と违うことを书きたければ人
と违う言叶で书け、と言っていた。また(ジャズピアニストの)セロニアス・モンクは
“どうやったらこんな音が出るのか”と寻ねられ、“键盘は88本あるだろう。みんなこ
れで音を作っている”と言っていたが、そのなかで魂に响くピアノを弾いていた。もっ
とも、(地下1阶の)下まで行く通路を见つけた人はそれほど多くない。実际、地下1
阶を访れて书いていた方が、ロジカルな批评はしやすい。(作曲家の)モーツァルトと
サリエリもそう。生きているうちに评価されたのはサリエリだったかもしれない。でも
何かを作りたいと思うならば、地下のもっと奥まで行かなければならない。河合先生も
理解されていたと思うが、(それを分かっている人は)文学の世界では少ない。仆は正
気を保ちながら地下の奥深くへ下りていきたいと思っています。
汤川さん 村上さんは初期のアフォリズム(警句)とデタッチメント(孤立)から、(
长编第3作の)“羊をめぐる冒険”でストーリーテリング(物语)に入ったと言われま
す。そのとき、スポンティニアス、つまり自発的なものでないと意味がないとおっしゃ
っていたと思うが、それを说明していただけますか。
村上さん “风の歌を聴け”“1973年のピンボール”という最初の长编2册と短编集“
中国行きのスロウ・ボート”は饮食店をしながら书いていたため、まとまったストーリ
ーを书く时间がなかった。断片をコラージュするという书き方しかできませんでした。
当初はそれが斩新で评価されたが、それより先に行きたかった。それから村上龙の“コ
インロッカー・ベイビーズ”を読み、こういう书き方をしたいと思い、店を辞めました
。时间を好きなだけ使って物语を书ける喜びを味わい、途中で结末がどうなるかもわか
らないまま书き続けました。そのうち自分がこういう风なものに向いていると感じるよ
うになりました。“世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド”は“世界の终り”
だけで発表、100枚ぐらいの小说でした。自分でも面白いとは思ったが、纳得はしてい
ませんでした。それだけでは読者を引きずり込む力がないので、いつか书き直そうと思
っていたら、あるときに思いついたのが同时进行の物语。“私”と“仆”に人称を分け
て自分を分裂させ、最后に再统合しようと。顺番に书いていったら何とかなるだろうと
思って书いていましたが、(“世界の终り”と“ハードボイルド・ワンダーランド”の
部分が)不思议に呼応しているようです。(神がかりな感じがするので)セラピーを受
けた方がよいかもしれませんね。
汤川さん “ねじまき鸟クロニクル”は物语一辺倒で良かったときからの第3ステップ
との作品ということですが、详しく说明していただけますか。
村上さん “羊をめぐる冒険”や“世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド”は
“次はどうなる?”“次はどうなる?”と仆自身が楽しんで书いていました。“ねじま
き鸟”では“世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド”よりも世界をもっと分散
してみよう、分割してみようと考えました。一人称を使っていたので分割はすごく难し
いのですが、思い出、记忆、手纸、日记などを组み合わせて重层的な世界を作ろうとし
ました。その意味では新しい试みです。あの小说には主人公が壁を抜ける“壁抜け”と
いう场面が出てきますが、あれはメタファーではなく、仆の本当の体験。小说はリアリ
ズムと非リアリズムに分けて考えられることが多いですが、自分にとってはいずれもリ
アリズム。(コロンビアの作家)ガルシア=マルケスの作品をみなマジックリアリズム
というが、仆には単にリアリズムと感じられる。西洋文学などではリアリズムと非リア
リズムをロジックで分けて书こうとしているが、仆はマルケスの方にリアリティーを感
じる。
汤川さん 物语には(1)魂の奥底にあるもの(2)人と人をつなぎ合わせるものといえそう
ですが。
村上さん デタッチメントから始まった仆はコミットメント(関与)へとシフトしてき
ました。今は魂のネットワークを作りたいという気持ちがあります。人はそれぞれの物
语を持っている。子供が童话を読み、剣を持って森の中へ行くのは、自分の中に物语を
取り込んだからです。大人になってからもそれぞれを主人公とする复雑な物语を持って
います。ただし、魂の中に持っている物语が深みを持っているか、奥行きを持っている
かというと难しい。それを本当の物语とするには相対化が必要であり、小说家の仕事は
そのモデルを提供することだと思います。読者に共感してもらえるということは感応し
てもらえることであり、それが広がることでネットワークが生まれる。良い音楽を聴く
と心が震えるが、それは小说も同じ。それが物语の力だと思います。仆の场合も、“ど
うして私の考えていることが分かるのですか”と読者に言われたりするとうれしい。
汤川さん 19世纪が小说の时代だったのに対して、20世纪は物语が軽视された时代です
が、これはなぜでしょう。
村上さん 仆は10代で19世纪の小说を読みあさりました。ドストエフスキー、トルスト
イ、ディケンズ、バルザック。“戦争と平和”は3回、“カラマーゾフの兄弟”は4回
読んでいるので体に染み込んでいる。物语はなくてはならない存在です。20世纪に入っ
て阶级闘争とか、フロイトの精神分析のおかげで、心理小说のようなものが出てきた。
1980年代になって、(米国の作家)ジョン・アーヴィングが出てきて、“おおこれは”
と思った。话がどんどん进んでいくので。
汤川さん 村上さんはアーヴィングと対谈をされていますよね。
村上さん 彼はディケンズマニアなんですね。仆はセントラルパークを一绪に走ったこ
とがあります。1983年のことですが、これは良かった。変な人でね。セントラルパーク
には马车が走っているので、马粪が落ちている。それをいちいち指摘してくれるんです
。アーヴィングはレスラーですので、体を锻えるために走っているようでした。
汤川さん 戦前は“私小说”の隆盛で夏目漱石などが軽视されてしました。
村上さん 仆は漱石のファン。文章もうまいし、面白い。仆も最初の顷は批判が多かっ
た。でも読者がちゃんと付いてきてくれた。それが30年続いている。ありがたいことだ
と思う。
汤川さん “1Q84”は物语を内にはらんだ大长编です。现実と非现実、日常と非日常
の境目がないようです。一方で最新刊“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”
は“ノルウェイの森”以来のリアリズム小说のようですが。
村上さん “ノルウェイの森”は纯粋なリアリズム小说を目指した作品。上の段阶にい
かないといけないだろう、他の作家と同じ土俵に乗らないと次のステージにいけないだ
ろうとしばりをかけ、それなりにうまく书けたと思う。本来のものでないもので売れて
しまったので、プレッシャーを感じた。でも、あれがないと“ねじまき鸟”は书けなか
ったと思っている。“1Q84”は全部三人称で书くことで世界が広がった。三人称はど
こへでもいけるし、谁のことも书ける。ミクロコスモスを并べ、お互いが反応し合うと
ころを作品にできる。ドストエフスキーの“悪霊”が念头にあって、そういう総合小说
を书きたかった。“1Q84”はやりたかったことがフォーマットとしてできたと思う。
“多崎つくる”は现実と非现実に分かれているものを全部现実の土俵に乗っけてみたら
どうだろうと思って书いた作品。アタマと意识が别々に动いている。羊男やカーネル・
サンダースは出てこないが、底の方で横たわっている。“ノルウェイの森”には文学的
な后退だという批判もあったが、仆にとっては実験。今回も新しい试みをしている。
汤川さん “多崎つくる”は议论の多い小说だと感じました。トーマス・マンの“魔の
山”やドストエフスキーの“悪霊”をほうふつさせます。
村上さん 仆の中では対话小说です。灰田亲子の部分はたしかに议论的なところがある
が、彼らは筋に络んでいない。筋に络んでいない人たちなので议论になるのだと思いま
す。仆は小说を书く上で会话部分で苦労したことはなく、会话でストーリーを进めてい
くことが好き。ただし会话を描くときに体温が変化しているようなリズムがないとだめ
です。
汤川さん 今度の小说は“アフォリズム”が多いように感じましたが。
村上さん 自分ではあまり意识しなかったが、それは読み手の自由ですね。仆はテキス
トを提供する侧ですから。
汤川さん 読み终わった后、つくるが辿った时间はすごく単纯、剧的なものが何もない
。しかしつくるの内面では非常に激しいドラマがある。时间的な筋と物语とはちがうの
か。
村上さん 确かにあれをあらすじにするとおもしろくなくなる。出来事を描写するので
はなく、意识の中に出来事を并べている。そこで読者の意识がついていかなければなら
ないので、难しいところでもあります。仆は今回のように人间をきちんと书いたのは初
めてだった。最初“多崎つくる”は短い小说にするつもりだった。名古屋の4人も说明
しないつもりだったが、书いているうちにどうしても书きたくなった。沙罗がつくるに
“行きなさい”“向き合いなさい”と言ったと同时に仆に“书きなさい”と言ってきた
。彼女は仆も导いてきたので、たしかにすごい存在です。仆にはこれまでもそういうこ
とはあった。たとえば昔雑志でフィンランドに行ったことがあって、そのあとにフィン
ランドの场面を思いついた。フィンランドに行かずに书いたけど、わりとそっくりその
ままだった。借りたフォルクスワーゲンも绀色だった。仆にとっては导かれるというこ
とが大事で、导かれて体験し、より自分が强くなる。自分自身や登场人物が强くなって
いくなかで、読者にも伝わればいいと感じています。
汤川さん 人と人をつなぐのが物语の役割。场面场面に问いかけがあるように思います

村上さん これまではこっちは书かないと言ったことがあったが、(最近は)人间的兴
味が出てきた。“アカ”とは、“アオ”とはなどと、胜手に动き出す。人间と人间のつ
ながりに强い関心があります。“1Q84”を书いてそのような力が出てきたのではと思
う。
汤川さん 今回の场合は5人というユニットで、とても象徴的。“アオ”のような出世
人间を描き、しかもリアリティーを感じるが、どのようなところから着想を得ているの
か。
村上さん 仆の小说登场人物にはモデルというのはなく、ほとんど自分で、仕事やしゃ
べり方を自分で作りました。
汤川さん つくる君はグループから突然切り舍てられ、なぜそうなったかという问いに
半年间ぼうぜんとします。
村上さん 仆も近いような経験はあったが、そういうとき、人はそのような経験を隠そ
うとするのだと思う。人は伤を受け、时间が経つと上を向いて、という缲り返しではな
いのか。仆は结局、そういうのを书きたかったかもしれません。
汤川さん フィンランドでの再会の场面はたった2、3回しか“悪霊”という言叶を使
ってないが、“シロ”や“クロ”の人生をまざまざと象徴しています。
村上さん 仆はメタファーとしての悪霊ではなく、本当にいるおばけというものを意识
して“悪霊”と书いた。そういうのは本当にとりつかれる人がいるし、本当にこわい。
メタフォリックに読み取られることはあるだろうけれど、仆の中では、一人の人间を灭
ぼすほどの本当のお化けを考えていた。
汤川さん “エリ(クロ)”がつくるにハグしてくれというとき、“痛みと痛みによっ
てつながっているのだ”との言叶によって、二人が肉体を持つように感じたが。
村上さん 自然とそうなっちゃうのかな。あまり読み返すことはないが、自分の本を読
み返したとき、“アンダーグラウンド”でいつも涙が出る。インタビューのときはにニ
コニコしながら话を闻いていたが、去ってから1时间ぐらい涙が出た。そういう経験が
大事だと思う。
汤川さん 19世纪小说が意识のどこかにあったか。
村上さん 全くなかった。小说を书き始めた顷は、书きたくても书けない、という事が
多かったが、少しずつ书けることを増やしていった。なんとか书けるようになったのが
2000年ごろ。“海辺のカフカ”から自分の书きたいことがちゃんと书けるようになった
と感じている。
汤川さん “多崎つくる”は执笔にどれくらいかかりましたか。
村上さん 半年で第1稿を书き、半年で第2稿を书いた。朝は小说を书き、昼からは翻
訳などしてほかはしない。朝に集中して早く书く。仆は书き直しが好きで、第1稿と第
2稿は全く违ったものになる。第1稿はコンピューターに残っているが、早く舍てたい

汤川さん リスト“ル・マル・デュ・ペイ”のラザール・ベルマン、小说で使おうと思
ったのは?
村上さん 仆は朝クラシックを聴く。夜に寝る前にLPに明日の闻くものをセットする
。そこでたまたまリストのLPが仕事をしているときにかかって、使おうと思った。说
明できないが、CDよりアナログLPのほうが音として仕事がはかどる。仆はいつも音
楽に励まされて仕事をしている。これまでずっとジャズを聴いてきて、リズム曲になじ
んでいるので、文章を书くときにもリズムで书いている。仆は小说は独学だが、リズム
に乗って文章を书けばいけると思う。最后に仆の本を読んで“泣きました”という人が
いるが、“笑いました”と言われた方がうれしい。泣くという悲しみは个人的な感情に
密接に结びついている。笑いはもっと一般的なものだから、読者に笑ってもらえるもの
を书きたい。ユーモアで笑うと人の心が広がる。悲しみは内向していくので、まず开か
ないといけない。ユーモアをいろんなところにちりばめて小说を书いていきたい。

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