这段无意间看到日本人部落格里NHK歴史秘话ヒストリア发现的,
大致上日本维基也有记载这件事,有趣的是,在战后对岛津家的处分
从结果论来看几乎是轻轻放下。 这跟绝大多数的西军大名相比不仅
非常的怪异也耐人寻味。 譬如立花宗茂在战后跟义久一起逃回九州
后也同样笼城抗战,而后不敌九州东军大名联军柳川城攻陷,被家康
改易成浪人。(值得一提锅岛直茂儿子挺西军,但直茂挺东军是第一个
去打小早川秀包/宗茂;宗茂最后恢复大名身分。) 而其间岛津亦派遣
援军支援立花宗茂,可惜援军尚未抵达柳川城前三日便已陷落无功而返。
庆长5年9月30日(1600年11月5日)家康命令岛津当主义久上洛谢罪
解释并解除自义弘归国来不断加强的军备。但多次被义久拒绝,此举
惹恼家康便责令九州东军三大名(黑田、加藤、锅岛)准备再集结三万
多大军进攻岛津家。(“国境の道が军势でふさがれていてどうにも
通行出来ません”“旅费が足りないので少し延期させて下さい”
“病気になりました仮病ではございません”)
正在两方交涉毫无进展下,(“萨摩冲で明からの商船二只が袭われ
积荷が夺われ乗组员全员を杀害、船は火を放た沈められる”
という事件が起こります。)1月12日(12月17日)发生一件令家康震
惊的大事,在萨摩海域,明朝的商船两只遭袭船员惨遭杀害并放火烧
沉。 此举让原本下定决意要打垮岛津家的家康不得不下令撤兵。 此
举亦被日本教授 志学馆大学教授 原口泉さん指为
(“これは家康に対する强烈なデモンストレーション
、岛津をつぶすとこういう事件が起こるんだ!・・もし最后まで戦う
と我々は海に散らばる・・経済的基盘を固めなければならない家康は
、岛津が海のゲリラとして抵抗势力になるのを怖がったんですね”)
对家康强烈的抗议,即便岛津被击溃,也会逃到海上当海盗掠夺商船
借此打击家康的经济统治力。
在1602年,岛津下任当主忠桓不顾义久反对上洛,代替义久跟家康谢
罪,终于换得岛津家的安堵,同年继承家督。(“义弘の行动は个人行动
であり、当主の义久および一族は承认していないから岛津家そのもの
に処分はしない”また、义弘の処遇も“わし(家康)と义久は仲がいい
ので义弘の咎めは无しとする”) 一切都是义弘的个人行为跟岛津家无关
,家康我跟义久是麻吉所以义弘也不逞罚了..
家康对岛津的处分真的非常特别(义弘西军->岛津摆明敌对拖字诀->烧明船
->家康撤兵->儿子道歉->没事)..不知道大家有什么看法?
注..另外义弘在战后有暂时被叫去到樱岛谨慎的纪录,最后在加治木
隐居致力于教育下一代。