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http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG0301G_T01C14A0CR0000/ 日本经济新闻
信长“幻の上洛”、大名离反で顿挫 里付ける书状発见 2014/10/3 13:20
http://goo.gl/TSa87M 照片
熊本県立美术馆と熊本大、东大は3日、织田信长が天下统一に向け、1568年に上洛
(じょうらく)する2年前に计画した“幻の上洛作戦”を里付ける足利将军家侧近
の书状を発见したと発表した。计画の存在は知られていたが、书状により信长が予
定していた上洛の経路が具体的に判明。日付から、计画が実行直前で顿挫したこと
も分かるという。
県庁で记者会见した熊本大永青文库研究センターの稲叶継阳教授は“信长が早期から
京都で実権を握る计画を立てていたことを里付ける非常に贵重な史料だ”と述べた。
书状は、室町幕府13代将军、足利义辉の暗杀后、京都を逃れた义昭(后の15代将军)の
侧近らが署名した计14通で、いずれも1566年(永禄9年)8月28日付。
幕府再兴を目指す义昭と侧近が伊贺(三重県)や山城(京都府)など京都周辺の势力に
宛て“御入洛の御供として织田尾张守参阵し候”と、义昭の上洛で信长の协力を得たこ
とを示し、自らに味方するよう呼び挂ける内容だ。
宛先などから、信长らは尾张(爱知県)から北伊势(三重県)、甲贺(滋贺県)、矢岛
(滋贺県)を経て京都に入る予定だったことが分かる。书状の日付の翌29日、近江の有
力大名、六角氏が义昭侧から离反、计画は顿挫した。
书状は足利家に医术で仕えた米田贞能(求政)に托されたとみられるが相手先には届け
られず、その后は里返して袋とじにし、再利用して中世の医术书が书き写されていた。
熊本県立美术馆が昨年10月、永青文库研究センター、东大史料编纂所と共に熊本市の
个人宅の古文书を调査し、医术书の里面の书状を発见した。米田家は后に熊本藩の家老
となった。
书状は、同美术馆で10日から一般公开される。〔共同〕