图文连结:http://www.sportsv.net/articles/7310
笔者近年虽然比较关注西武的消息,但如果要说到央联要支持哪支球队,第一选择当然是
跟西武一样受限于球团经费,始终留不下大咖自由球员的广岛东洋鲤鱼了。也因此,当还
在当打之年的黑田博树真的决定回归广岛的时候,笔者也是惊喜万分,毕竟没人想过黑田
会在美国还有一堆球团捧著大笔钞票,希望能跟他签约的情况下,毅然决然回到家乡球队
效力。历来已经有许多媒体作了相关报导,但今天看到这篇报导中那句“真正努力奋斗的
是你们!”的话语,真的让人忍不住热泪盈眶...
虽然来源在日本算是八卦媒体,但毕竟是实际访问到当事人,可信度应该没有问题(吧)
。谨此简单翻译这篇文章跟大家分享,如有错误还请不吝指正。
报导来源:
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150116-00010000-jisin-soci
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黒田“21亿円舍て広岛复帰”决めた広岛土砂灾害の现场
让黑田下定决心“舍弃21亿日币的合约,回归广岛”的土石流灾害现场
“わしは野球には兴味がないけぇ、サッカーファンなんよ。じゃけぇ、地元テレビ局の
人と一绪に“彼”が来てくれたときも、体の大きな无口なカメラマンじゃあ思おとった
。でリラックスさせるために言うたんよ、‘あんた、テレビで见たことあるよ’と。で
も、黙って颔くだけじゃった(笑)”
“我对棒球根本一点兴趣都没有,是个彻彻底底的足球迷啦。所以当地方电视台的人跟“
他”一起来的时候,我还以为他只是个身材壮硕,沉默寡言的摄影师而已。为了缓和气氛
,我忍不住对他说‘我好像在电视上看过你耶?’,听到这句话的他也只是默默点头而已
(笑)”
昨年10月25日、広岛市の土砂灾害で被灾した安佐南区绿井8丁目に住む野间茂氏(68)は
、駆けつけてくれたボランティアの人たちとともに半壊した自宅の片付けに追われてい
た。休憩时间に彼らを自宅に招き入れ、被灾当时の写真を见せていた。そんなとき、冒
头の2人が访ねてきた。その“体の大きなカメラマン”こそ、8年ぶりの広岛复帰を决意
した黒田博树(39)だった。
住在广岛安佐南区绿井8丁目,68岁的野间茂先生是广岛土石流的受灾户。去年10月25日
,他正与志工一起收拾因土石流而半毁的自宅。休息时他请志工进入家中,让他们看受灾
当时的照片。就在这时,前面提到的两个人正好来访。那个“体格壮硕的摄影师”,就是
阔别八年决定回到广岛队效力,39岁的黑田博树。
“しばらくすると、みんながざわつきだして‘ウソっ?黒田さん?’と気づき始めたん
よ。もうビックリじゃ。皆が喜んで彼を取り囲むようじゃった。忘れられんのは、若い
女性が‘今年もアメリカで顽张りましたね’と言うたんよ。そしたら寡黙だった彼が、
人一倍大きな声で、‘いえ、本当に顽张っておられるのは、あなた方です!’と言うた
んよ。もう、どんだけすごい人じゃろうか”
“过了一会,大家才查觉他的身分,‘不会吧?是黑田先生吗?’现场也引起一阵小小的
骚动。这真是太意外了,大家都开心的围在他身边。其中最让我难以忘怀的,就是有位年
轻女性对他说‘您今年在美国也表现得很好呢’,这时一直保持沉默的他,突然用比他人
大出一倍的声量说‘不。真正拼尽全力的,应该是你们!’听到这句话的时候,真觉得他
是个非常了不起的人。”
年俸约21亿円を蹴って、4亿円の広岛复帰に米メディアは“クレイジー!なぜ?”と报
じた。だが、交渉を続けてきた铃木清明球団本部长は、复帰の理由を“ファンへの使命
感”と话した。もっとも长く取材を続けてきた地元テレビ関系者は“理由はひとつだけ
ではない”としながらこう语った。
把美国球团开出的年薪21亿合约抛诸脑后,只跟广岛签下4亿日币合约的事情,让美国媒
体纷纷以“这太疯狂了!怎么可能?”来形容。始终跟黑田保持联系的广岛球团本部长铃
木清明先生,认为真正促使黑田回到广岛的理由,就是“对球迷的使命感”。至于长期跟
拍的地方电视台相关人士,则认为事情并没有这么单纯。
“日本に帰るなら、最后は広岛でとの思い。监督が绪方孝市に替わったことなど理由は
さまざま。このオフには3回も交渉しとる。それまで复数回交渉することはなかったん
じゃ。じゃけぇ、黒田のなかで変化があったことは事実じゃろう。最后の最后に后押し
したんは、本気になった球団の诚意もあるけど、直接ファンの声や被灾地の现状を见た
ことが大きいじゃろうね。あいつはそういう男よ”
“既然在生涯的最后要回到日本,当然只有广岛一个选项而已。监督改由绪方孝市担任也
是一个原因。季后球团跟黑田来回交涉了三次,以往的交涉次数都没有这么多。总之可以
确定的是,黑田的想法一定也有所改变。至于最后的关键,除了球团的诚意满分之外,亲
耳听到球迷们的心声,亲眼看到灾区的现况,这些都有很大的影响。他就是这样的男人。
”
野间氏は70年代半ばに戦时下のベトナムを访れ、难民キャンプで奉仕活动をした経験を
持つ。
“作业いうんは、ホント大変なんよ。とくに土砂の撤去はね。若い子が颜を真っ赤にし
ながら、倒れる寸前まで顽张ってくれとったんよ。无駄口叩かんし、ピ~ンと张りつめ
たなかでね。でもね、黒田さんが来てくれてからは、えらいつらい作业もみんな、笑颜
でこなしていくんよね。ボランティアいうんはいろいろな形があるけど、やっぱりすご
い人いうんは、もうそこにおるだけで周りの人を力づけるんじゃね”
野间先生曾在1970年代前往正处于战火下的越南,在当地为难民们服务。
“工作真的很辛苦,尤其是搬运砂土之类的粗活。那些孩子每个人都使出全身的力气,整
张脸红通通的,直到不支倒地之前都拼命工作。没有人敢多说什么,只是默默地努力而已
。但是看到黑田先生之后,虽然工作还是一样吃重,大家却都能微笑以对。所谓的‘志工
’有很多种。我想,像他这样了不起的人,就算只是站在那里,也能带给周遭的人们无穷
的力量呢。”
大好きだった街が无残にも破壊された光景に言叶を失い、立ちすくんだ黒田。その后に
やってきた被灾者やボランティアの人たちとのふれあい。なによりも义を大切にする男
の心の中を想像するのは难しくない。
今年、広岛は被曝から70年、’75年の初优胜から40年の节目の年を迎える。“苦しいと
きに喜びを与えられるなら最高のモチベーションになる”。自らの言叶を地でいく决断
だ。
最爱的城市被大自然无情的摧残,黑田只能伫立凝视此景、无法言语。在那之后,他与灾
民和志工们彼此交流,不难想像这位始终把恩义摆在第一的男人,心中到底有什么样的变
化。
今年适逢广岛被原子弹轰炸70年,距离1975年首次拿下日本冠军也已经过了40年。“在这
最艰苦的时刻,如果能让人们展颜欢笑,这就是最让我感到兴奋的事情了”这句话充分展
现出他回馈家乡的决心。