※ [本文转录自 Japanhistory 看板 #1JgCngk_ ]
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本能寺の変に新资料 光秀侧に长宗我部“叹愿” “四国攻め回避”说を补强
产経新闻 6月24日(火)7时55分配信
明智光秀が主君の织田信长を讨った“本能寺の変”について、林原美术馆(冈山市
北区)が所蔵する“石谷家(いしがいけ)文书”に土佐の长(宗我部元亲(ちょうそか
べもよちか)が光秀の腹心に宛てて四国攻めに苦悩する书状があったことが23日、明
らかになった。変の要因には诸说あるが、长宗我部との関系を重んじた光秀が四国攻め
を回避するため决起した可能性を示す史料として大きな论议を呼びそうだ。
石谷家文书は、美浓国(岐阜県)の武将・石谷光政・頼辰(よりとき)父子の书状
などで构成され、天正年间を中心とした3巻47通。同美术馆と冈山県立博物馆(冈山
市北区)の共同研究で、本能寺の変直前の天正10(1582)年5月21日付で元亲
が光秀の侧近、斎藤利三(としみつ)に宛てた书状が见つかった。
当时の元亲は四国统一の途上。ところが大坂本愿寺との和睦が成立したことなどか
ら信长は当初の友好関系を転换し、长宗我部侧に土佐以外の占领地からの撤退を要求し
ていた。
今回発见されたうち、6月2日の本能寺の変の约5カ月前にあたる1月11日付书
状では、利三が元亲に“要求に従うのが长宗我部家のためになるし、光秀も努力してい
る”と助言。
これに対し元亲は5月21日付で“阿波国中心部の诸城からは退いたことを信长殿
に伝えてほしい”と返答。信长の命に従うことで激突を避けようとしていたことが初め
て分かった。
本能寺の変の要因については、光秀が天下取りを目指した“野望说”をはじめ“怨
恨(えんこん)说”などがあるが、今回の発见は光秀が信长の四国攻めを回避しようと
したとする“四国说”を补强するものといえ、今后の论争に影响を与えそうだ。
同博物馆の内池英树学芸课主干は“この発见で50点程度だった四国说が80点ま
でになり、他说に比べ一歩抜きんでた”と话している。