看到一篇报导,是小学馆的杂志“NEWS ポストセブン”今天刊出的一篇文章
标题是:西武球団・坂井保之元社长 巨人と展开した郭泰源争夺戦秘话
http://goo.gl/WQKUBx NEWS ポストセブン 6月8日(日)7时6分配信
但因程度有限,怕无法完整翻译或失去原意
所以贴上来,麻烦日文好的版友能帮忙一下
原文:(以记者角度叙述)
今ひとつ调子の上がらぬ巨人は4月なかば、“キューバの至宝”と呼ばれたセペダを获得
したが、かつて大変な争夺戦が缲り広げられたのが“オリエント・エクスプレス”と呼ば
れた台湾の至宝・郭泰源。スポーツライターの永谷脩氏が、当时の争夺戦のエピソードを
缀る
* * *
镰仓の奥座敷に‘琴’という小粋な小料理屋がある。私と坂井保之は、会うと必ずここ
で一杯饮み交わすのが常だ。坂井はかつて3球団の球団代表を务めた経験を持つ、プロ野
球経営のエキスパート。今でこそ亲しくさせてもらっているが、初めて会った时は大変
だった。
约40年前、私は少年志で“12球団こども会総めくり”という企画をやることになった。
しかし広岛と太平洋クラブ(现・西武)以外は相手にしてくれず、话を闻いてくれるこ
とになって访ねた太平洋の球団事务所でも、约束の时间になっても谁も出てこない。た
まらず大声を出したら、里から坂井が飞び出してきた。
太平洋は慢性的に资金缲りに苦労していた球団で、正直“こども会”どころではなかっ
たはずだ。しかし坂井はこう言った。
“活きのいい兄ちゃん。それだけ言うなら何かいいアイデアがあるんだろう。言ってご
らん”
当时は少年野球マンガ全盛だったので、‘一球さん’(水岛新司)の使っていた帽子を
、実际の试合で被るのはどうでしょうかね、と言うと、“そりゃグッドアイデアだ”と
手を叩いて喜んでいたのを覚えている。坂井に褒められるのは嬉しかった。
この一件の后、坂井とは何でも话せる関系になった。実はこの顷、私は江川卓を追って
おり、ライオンズとは微妙な関系だったが、坂井は违った。ある记者が、“なぜ永谷だ
け许すのか”と闻いた时、坂井が“彼の行动はお前らとは违う”と言ってくれたのも、
また嬉しかった。
だが命をかけた仕事となると、事情は别だった。球団の亲会社が西武に変わり、坂井は
そのまま球団代表に就任。その后、西武は1984年のロス五轮に出场した郭泰源にいち早
く目をつけ、巨人との炽烈な获得合戦に突入する。台湾のエースを巡る情报戦では、坂
井は本音を喋ろうとはしなかった。ただ1つ、内绪で教えてくれたのは、台湾チームより
も1日早く所用で台北に帰る、泰源の兄が乗る飞行机の时刻だった。
坂井たちは五轮后に台湾に渡り、郭兄弟の说得に当たった。后に坂井から闻いたところ
によると、この时点で巨人はすでに、泰源に白纸の小切手を2枚渡していたという。先に
目をつけていた选手を“横取り”されては敌わない。
坂井らは急ぎ契约を结んで入団発表を実施、会见の前にその小切手を破らせた。会见を
急いだのは、“巨人・王贞治监督が访台する”という情报をキャッチしていたからだ。
台湾でも英雄视される王监督が来て、泰源に接触すれば、何が起きるかわからないとい
う思いがあっての决定だった。
一连の获得合戦は、私も现地で取材していたが、私のような野良犬ごときには敌う世界
ではないと思った。その时の苦しさは今でも忘れられない。坂井は発表后しばらく姿を
消し、どこに隠れたか、决して口を开かなかった。
この时の取材中、郭泰源の姉に闻いた话が印象的だった。
“台湾人は贫しいから谁でもお金がほしい。泰源もそれを考えてくれればいいのに。で
も最初に井戸を掘ってくれた人のことを忘れないのが台湾人だから”
坂井はダイエーの球団代表を辞めた后、しばらく镰仓市観光协会の専务理事を务めた。
ゴルフが趣味で、“镰パブ(镰仓パブリックゴルフ场)の鬼”といわれる赤チタンドラ
イバーの名手。とにかく负けず嫌いで、今でも私に飞距离を10cmでも超されると大騒ぎ
する。80歳を越えても、无邪気なものである。
统一球问题、コミッショナー问题など、最近の球界は细かなことばかりが騒がれるが、
坂井のような人物がいれば、球界はもっと面白くなるような気がしてならない。
※周刊ポスト2014年6月13日号